無駄なものなんてないんだよの考察
テレビゲームが好きだ。
ファミコン時代からずーっと今だに大人になってもゲームをしてる。
ただ最近思うことがある。
それは
ゲームする大人とゲームしない大人の間の溝、深すぎん?
ということだ。
ゲームは、娯楽コンテンツの1つだ。
テレビ市場や映画市場と肩を並べるくらい、ゲーム市場も盛り上がっている。
コンテンツとして、その2つと大きな差はないように思われる。
なのに実際は『昨日グレイテスト・ショーマン観たんだ!』って言ったら『へー、そうなんだ。どうだった?」とラリーが返ってくるのに、
そこで『昨日ファイナルファンタジーをしたんだ!』と言ったら『…ヘ〜。(他にすることないんかいな。)』と言われる。(思われる)
見ず知らずの他人がやってるプロ野球の話や、昨日見ただけのテレビの話や、脳の中だけで起こっただけにすぎない夢の話が許されて、なんで実際にやったファイナルファンタジーの話をしたら「なにコイツ」的な空気があるのだろうか。
よく考えると子どもが「あんたゲームばかりしてから!」とよく怒られるのに対し、「あんたサッカーばかりしてから!」て怒られる事はほとんど無い。
なぜかゲームをするという行為には、あまり良い印象が持たれないという現実がある。
そんな世の中だから、僕自身もゲームしてる行為に後ろめたさを感じ『ゲームなんてただの暇つぶしだ。現実逃避だ』と言われても仕方ないものだと思ってしまっている。実際、ゲーム大好きなくせに、大声で「大好きです。」とは言えない。
そうやって現代のゲームが好きな大人達は全員「僕たちは反社会的行為をしている。ゲームをする僕たちが悪い。」と常に自分に言い聞かせ、影に隠れながら、隠れたゲーム好き仲間を見つけ、コソコソと生きているのだ。全員。
が、ちょっと待てよ。と。
そこまでゲームすることは後ろめたく思わなきゃいけないことなのだろうか。
これは大きな偏見なのではないだろうか。
世界ではeスポーツといって、ゲームも1つのスポーツとして昔から有名で人気である。
優勝者には多額の賞金さえもある名誉ある大会もある。
中でも日本のゲームは世界でもトップクラスに進んでいる。
ゲームは日本の誇る文化の1つといっても過言ではないだろう。
だから、もっとゲームは堂々として良いのではないだろうか。
昨今のゲームにもっと人権(ゲム権?)を与えても良いのではないだろうか。
僕は今日それを普段ゲームをしない人(以下マグルと記す)に訴えたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
では、どうしたらマグルの人たちにもゲームの良さが伝わるだろうか。
まず、マグルの人たちの中でゲームがどのような存在か考えてみる。
そういえば昔、似たような話をした時に、『人生でテレビゲームをしてた時間は本当に無駄。どんなに時間かけてクリアしたとしても、現実の世界には何にも残ってないんだよ。』と言われたことがある。
マグルの人たちにとって、ゲームは基本時間の浪費、無駄なもの、暇つぶしなのである。
言われた当時は『確かに。』と思い、ショックを受け、しばらくは過去の自分のゲームしてた総プレイ時間を計算し、その時間勉強したら今では宇宙飛行士にでもなれたのではないかと思い悔やむことも多かった。しかし、ぼくは閉所恐怖症なので宇宙飛行士には死んでもなれないのである。てか、なりたくない。怖い。ぼくが宇宙に行くならせめてサッカーコートくらいの広さと高さのある部屋を内蔵した宇宙ステーションを作って欲しい。
話は逸れたが、言われた当時は「無駄な時間」という言葉のインパクトも強く、ゲームしてる後ろめたさからその言葉を鵜呑みにしてしまっていたが、果たして本当にそうなのだろうか?
ここで考えたいのは、もしかしたらゲームにも何か人生に意味のある要素があるのではないだろうか。ということだ。
また、もう一つ、ゲームは子どもがやるもの、大人になってゲームするなんてガキっぽい。という雰囲気も見逃せない。
これも同時に考えたいと思う。
始めてみよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆ゲームは無駄なものなのか
①身体的な側面から
ゲームは手を使ってやるものがほとんどである。
特に指をすごく使う。ゲームによっては、とても繊細且つ速い指の動きが要求される。
最近では、老人のボケ防止にトランプやマージャンなどが勧められているが、それは指の動きや頭を使う事がとても脳に良いからである。
それならば、トランプの代わりにおばあちゃんにプレステ4のコントローラーを持たせ『モンスターハンターワールド』をさせてはどうだろう。
モンスターハンターとは、文字通り大きなモンスターを森や山の中で狩りをするゲームなのだが、その中では、モンスターを効率よく追い詰めるためにはどの武器が良いか、どの属性がよいか、どの装備の組み合わせにしたらスキルが発動するか、どう動いたら仲間の邪魔にならないか、などを複雑なコマンドを入力しながら考える必要がある。
よっぽど脳トレになるのではないだろうか。
健康モンハン時代の始まりである。
②交流的な側面から
ゲームばっかしてるやつ=友達いないやつ と言う認識も多い。
たしかに、過去はそういうことも多かったかもしれない。しかし現在はどうだろう。
最近のゲームは基本1人用でもオンラインに繋いであるものが多い。ゲームに許可をして、コントローラーに付属のマイクを挿せば、遠くの友達と会話しながら同じゲームができる。
これのなにが良いかというと、例えば会社からフラフラで帰ってきて、家で1人で過ごすしかない独身の人たちも「ただいまー、今日さ会社でこんなことあってさー。」「そーなんお疲れー、俺も俺も。」なんて言いながら、家にいながらにして友人と楽しい時間を過ごすことができるのだ。これは本当に良い。わざわざ悩み相談の電話なんて恥ずかしくてできないが、次の日忙しい人もゲームという口実でちょっとの時間だけでも友人と楽しい時を過ごすことができるのだ。
なので政府は、独居老人のお家一軒に一台ずつプレステ4とオンライン環境をプレゼントすべきである。
各独居老人と独居老人が繋がり、サーバー上にオンライン老人会が出来上がり、そこでみんなでモンスターを狩りに行く。
モンハン老人ホームの始まりである。
ゲームを使った人と人とのコミュニケーションの方法は増えてきてるし、むしろ1人でするゲームの方が少ない。
③目が悪くなる的側面から
目は悪くなる。
良い子もお年寄りも画面から離れてしましょう。
④ゲームは子どものするもの的側面
そもそもマグルの言うゲームはおそらく『スーパーファミコン』、行っても『初代プレステ』くらいの認識で止まっているのであると思われる。
いまのゲームを見た事あるのだろうか。
おじさん世代のマグルの「ゲームばっかりしてから、、、」のゲームの印象は
(参考:ファイナルファンタジー3より)
⬆︎これで止まってないだろうか。
現在、シリーズ15作目をむかえたファイナルファンタジーは、美麗なグラフィックと圧倒的に広いフィールドと壮大なストーリーで消費者を魅了している。
その綺麗さと深さはさながら映画である。
もはやものすごく長い映画を観ているのと同じである。
(参考:ファイナルファンタジー15より)
しかし、
映画は『観る』だけの完全に受け身であるのに対して、ゲームは「観る」、且つ、その世界の中に入って登場人物を動かして、謎を解き、協力、努力し、出会いと別れ、感動を能動的に体験できるのである。
(参考:ファイナルファンタジー15より)
読書や映画以上のドッップリとした、且つ、自由度のある疑似体験ができるのである。
大人もハマって仕方ないというか、もはや大人がハマっちゃうのである。
僕も実は何度も世界を救ってるし、ヤクザの世界でもトップクラスの強さも持ちながら託児所経営してたし、サッカーでオーバーヘッドキックも片手で出来る。←
ゲームの中の体験や感動なんてニセモノと言う人がいれば、それは読書や映画で得られた感動も同じくニセモノとなってしまうだろう。
確かにクリアした後に、誰に褒められるわけでもないし、お金がもらえるわけでもないし、筋肉増えるわけでもないのだが、良い作品だったら良いものに出会えたという思い出は残る。
これは、全ての物事に共通するのではないだろうか。
人生なんて過ぎてしまえばみんな思い出だと思えば、結局ゲームをやろうが、映画を見ようが、マラソンをしようが、サッカーしようが、旅にでようが、思い出さえできたらそれは人生において意味のあることなのではないだろうか。
ーーーーーーーーーーーー
マグルのみなさん。
みなさんの中で、ゲームのゲム権は少しは上がっただろうか?
今度からもし『最近ドラゴンクエストが楽しくてさー。』ってゲーム好きが言ったら、『へー、どういうお話?(皮肉でなく)」くらいの忖度はお願いしたい。
そして少しずつ両者歩み寄り、より良い世界を作っていこうではないか。
人生においてゲームばかりすることを推奨するわけでなく、あくまでバランスよくするとして、決してゲームしてる時間は人生において完全に無駄な時間なのではないのである!!
ま、結局
興味があるか無いかの話なんですけど。
※書き終わるまでに時間かかりすぎて、途中でとっくにゲーム熱は冷め、今では、このブログ書く時間あれば何かもっと別に素敵なことができたのではないだろうかと思えてならない。無駄な時間過ごした。モンハンしよっと。